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宮城県内の学校の授業再開 6月1日より

> 東京の空 、医療従事者へブルーインパレス

 が感謝と敬意をこめて、飛行機雲が五本。

 

>宮城県内の学校の授業再開 6月1日より

 

県内の多くが6月1日から授業を再開する。

 

今迄は小中学校は市町村が管理しているので、

大部分は5月11日からまちまちに再開されていたが、

 仙台市、名取市は6月1日からとしていた。

6月1日から、県立高校も再開となり、教育機関は

全部解除される事になる。

 

 部活動が学校再開とともに、同時に実施できる事になる。

全国の緊急事態宣言が解除されたときの総理の

コメントの中に プロ野球の無観客試合開始日を

6月19日としていたが、すべてがこの線が基本のようだ。

 宮城県は6月19日から練習試合などが可能になり、

7月10日から各種大会に参加が可能になる。

 事前には全国インターハイ、全国高校野球等の全国規模の

大会は中止が決定しているが、県レベルでの大会が

可能になったというメッセージである。

 又、県境をまたぐ部活動や修学旅行は7月下旬としている。

尚、柔道、合唱等、濃厚接触、飛沫の飛ぶ競技は慎重な

判断を協会へ求めている。

 高校生の全国大会の中止決定で、口惜しさ、何もできない

ジレンマの涙を見てきた。

 この時代の高校生の部活動はなんだったのかと

 勉強は二の次であり、

特に三年生にはまことに酷な事態になった。

運動で、音楽で身を立てようとしている高校生には。

 

 尚 私の嘆きのムンクとは少し違うようであるが。

 

 > そこで 昔を思い出した。

 昭和41年の高校時代

 東北大会、全国大会のインターハイは青森県で

(新陸上競技場を施工中に縄文遺跡が見つかり、

後の三内丸山遺跡に繋がるが)

陸上競技部で参加、

幅跳び,400mリレー、1600mリレー

に出場したが、

全国大会は入賞叶わず、予選止まりであった。

 >今思うと仙台駅から青森駅までを 国鉄の花輪線経由、

 弘前経由 青森駅にいったのだと。

 明け方の岩木山の美しさに感動した思い出がある。

 それで弘前大学への進学へ舵を切ったように思うが、

 帰りはバスで奥入瀬経由で帰ってきたように思う。

 青森と縁があるのはこの為であったのかとも。

 

> 国体は第20回大会で、大分国体に出場

 別府温泉に宿泊、大分市の陸上競技場へサルで

有名な高崎山動物公園通過しながら、大分別府マラソン

コースを1時間程かけて行き来して競技に参加したが。

 

> 宮城県からは陸上には高校生男子は6人、

種目の搾られるので出場機会は減るが、

運よく 三段跳びではなく、走り幅跳びが選ばれ、

100m、一般混合400mリレーアンカーと

してともに参加。

 走幅跳びは7m01cmでおしくも予選敗退。

 リレーは準決勝で4位で決勝進出できず。

その時、高知県の神野正英氏とは種目も同じで

あったが、アンカー勝負では一気に離されて

、陸上の限界を感じた。

尚神野氏は日本大学へ進み、ロッテにいった

飯島選手とともにメキシコオリンピックに出場した。

運動では限界だと知った。

そんな思い出だけが残った。

 挫折の始まりでもあったが。

> 昭和41年の宮城県民大会で優勝したので、

参加機会を得たが、

想うと、 仙台一高校2二人、 仙台育英2人、                         

東北学院高校2人、等みな当時男子高校だった。

 

仙台一高のもう一人は船岡の斎藤和敏氏で

和菓子や「角屋」仙台市成田町の下宿先で一緒

で、宮城県中体連野球で準優勝投手斎藤氏、

中体連100m優勝のキャッチャの赤間が

入学後に野球部にはいたが、陰険な野球部を

やめて、陸上部に入って下宿して頑張った。

斎藤氏は結果としてやり投げで全国3位入賞した。

 > そして もしもの話をすると

この1年前に高校野球宮城県大会準決勝で

9回表迄 仙台育英に2対0で仙台一高校が

勝っていたが、投手高橋氏(後河北新報社)が

9回裏に足をつったため、降板。

 五橋中の二番手の投手が四球連発で自滅、敗退。

これ以来、仙台一高校はベスト8止まりである。

 甲子園の夢は消えているが、二人が入部時は       

 強かったので、先輩の後輩へのハラスメントが

強く二人のやめる切っ掛けになった。

 斎藤氏は北大へ進学し、やり投げ、円盤投げ、

砲丸投げで「道新」を作った。 

 私の勤務地八戸市に住んでいた時は 仕事から来八して

我家にとまってくれたが、体が190cm以上あるので

子供たちが寝ている姿をみて驚いていた事を思い出す。

 今は第二の人生として道東で牧場主である。

 もしも 二人がやめていなければ、甲子園へ

行ける最後のチャンスであったと、

 自己満足しているが。

 

>尚 同期にの野球部には、運動音痴といわれた

二塁手の大沼 徹氏がいる。

大沼 徹氏は東大大学院生時代と十五年ほど前に

二回目の東大野球部の監督になり、

六大学の連敗記録に阻止すべく頑張っていたが。

 現在も 千葉県内の大学教授をして本郷から

通っている。

 尚 2回目の監督時代に仙台第一高校の野球部を

指導にきてくれたが。

 その時の4番キャッチャが同期の

柔道部(県新人戦優勝者)の浜田整形外科医の

子息で後に弘大医学部へ、そして宮城県大崎病院へ。

 いろいろ続いている。

 

>  学び舎に声の聞こえず花は葉に    学

 

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