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東日本大震災の対談

東日本大震災の対談  5月28日

今野紀美子 プロフィール

滝同人、震災後、塩釜市で町内会活動から、避難所の体育館で約五十日間のボランティア活動を行う。主に、こころの癒しの場として「ほっとカフェ」を開き、お茶のみ場を提供しながら、避難者と正面から向き合って、話相手になってきた。

特に、友人とともに、避難所の子供たちのこころのケアに尽力し、話相手だけでなく、玩具、漫画本、文房具等も提供した。

赤間 学 プロフィール

滝同人、震災後、仙台市太白区富沢中学校の避難所で一週間ほどのボランティアを経験する。阪神・淡路大震災で現地入りしボランティア活動経験あり。仙台市太白区泉崎南町内会活動で、宮城県沖地震対応として防災対策部を立ち上げ、震災緊急時マニュアルを作成した。地元富沢中学校と地震時の初動体制や、中学生と地域防災マップの作成の指導にあたった。

日本赤十字社によりAED講習会を開催して、地域医師による緊急医療トリアージの訓練等、住民の防災啓蒙に当たっている。

震災時はどうでしたか。

学 紀美子さんは東日本大震災の時、宮城県塩釜市で被災され、その後、避難所でボランティアの活動を五十日間ほどなされたと聞きましたが、被災状況、句友のこと、俳句の事なども織り交ぜながらお話を聞かせて下さい。

 先ず、地震の時は何処におられ、どのように対処されましたか。

紀美子 高校のクラスメートと塩釜神社の境内にあるレストランでランチをし、3時から市中心部の壱番館内の図書館での会議がありましたので、ちょっと早く2時頃に外に出ました。するといつもの海光が消えていて、薄暮のような暗さで、神社の裏から黒い雲が千賀の浦の方へ舌のように伸びていました。友人は「雨の降らないうちに帰るわ。」といって別れ、一人で旅行の写真が出来ているはずの壱番館のカメラ屋へたまたま立ち寄った。

 その時、ドシン・ぐらぐらと大きな衝撃、今までに経験したことのない揺れに青くなった。カメラ屋のカウンターと窓ガラスの間で踏ん張っていたら、ご主人が、「大丈夫だよ、この建物は耐震だから」と言いながら、「この機械は何千万だからね」と機械にしがみついている。ところが、揺れは止まず、益々大きくなり、床からコンクリートの粉が吹き上げ、外の舗道がみるみるうちに沈下していゆく。商店街のショウウインドウの硝子がバーン、シャリシャリと砕け、土塀がずしりと崩れ落ちた。電線が切れ、その上を車がゆらゆら走ってゆきながら、プチプチと火花が散っている。長い揺れがおさまると、建物中、硝子の破片が落ちていた。気を取り戻して予定の会議場へ行くと、真っ暗で誰とも会えず、ぼーとしていると、ホテルの裏山の稲荷神社に避難だといいながら人が押し寄せてきた。私は咄嗟に、反対側の塩釜神社へ走った。

 防災無線の警報が「4メートル、7メートル、さらに10メートルの津波が来ます。高台に避難して下さい」と走る背中から追い立てられながら、やっとの思いで階段を登り塩釜神社ついて、振り返った海は暗く何も見えなかった。小雪がが舞い、神社づたいに裏山から自宅に帰ることが出来た。稲荷神社へ逃げた人々は津波が町中を連続的に襲い、水が引かないので、一晩中眠れない夜を過ごしたとのことであった。

 学さんはどうでしたか。

学 仙台市太白区の海岸部から8キロ地点の長町近隣のマンション一階の自宅に夫婦でいました。テレビと本棚を手で押さえ、足で机の上のパソコンとプリンターを押さえ、しがみつく妻に、この地震長いなといいながら、消えたテレビ画面の「宮城県沖で地震」のテロップが頭を駆け巡っていた。

地震後直ぐに、四年前に町内会に防災対策部を立ち上げた縁で、一時避難所の公園へ行き、防災倉庫を開放し、ラジオを掛けながら、七十代の女性を中心になり、高齢者の見回りを始めた。公園には幼児園のグループ、デーケアサービス中の車椅子のグループなどと、三百人ほどが様子見に集まってきた。ラジオからは、三陸で十メートルの津波が来襲との耳を疑う放送が声高に聞こえていた。雪が激しく降ってきたので、避難所の富沢中学校へ、向かった。夜の十二時までに富中の体育館、武道館、小ホールへ約千五百人が避難し、入り口だけを発電機で灯しながら、女子トイレへプールからの水の確保を図り、女性先生とバケツで水汲みを行いました。朝には町内会と中学校で備蓄していたアルファー米五目飯を妻を含め女性部三十人程で千五百食分のおにぎり炊き出しを行なった。以後四回行い、避難者から班長を決めて配給当番としました。紀美子さんは長くボランティア活動をされていたと聞きましたが。

被災地の町の状況のことなど

紀美子 私の自宅は高台で、地盤も堅く、津波被害もなかったので、帰った後で、一人暮らしの方々、高齢者の安否確認をしたりしながら、町内会長とも相談して、避難所も遠いので、在宅避難とすることを決定しました。電気、水道、瓦斯のライフラインが止まったので、一人暮らしの人々には、炊き出しもしました。テレビも電話もつながらず、まだ津波の被害の状況は知りませんでした。夜になり、災害対策本部の体育館へゆくと、避難所の学校の教室も満杯になり、計画では救援物資の集積所の場所まで人が溢れていました。

避難所のボランティア活動

学 紀美子さんは約五十日間ほど、避難所でボランティア活動をしていたとのことですので、その内容など教えて下さい。

紀美子 大震災の三月十一日は卒業式でした。避難所の体育館の近くの中学生が駆けつけて、備蓄倉庫から毛布の搬出などを手伝っていたら、夜になり、突然、泥だらけになりながら濡れた避難者が運ばれてきました。そこで津浪の実態を体で感じました。着替え・暖房・食料も何もない、もとより体育館は避難所でないので、炊事の設備もない。中学生が家からポットや薬缶を持ってきて、卓上コンロとガスボンベや練炭火箸、お茶などがいつの間にか集まり、冷えた体の避難者へ振舞われた。一晩中お湯を沸かす役を勝って出ていました。

 一週間ほど経つと支援物資の中に珈琲や紅茶も届くようになり、避難所の一部を借りて、熱い飲物を中学生が振る舞い始め、ここを「ほっとカフェ」と名付けて、癒しの場になってきました。学生が忙しくなり、私がこの癒しの場を引き継ぎながら避難所の閉鎖の四月二十八日まで続けました。

 避難所の様子は、十二日は食パン一枚、蒲鉾一枚、これが一日分でした。十三日は朝晩食パン二枚、十四日は米子市から自己完結型の支援で豚汁が振舞われた。

四日目にもなると、避難者も落ち着きを取り戻し、帰宅を始めたが、また戻って来ると、家をもっていかれた、車が突き刺さっていた、船や漁具、牡蠣いかだが陸に打ち上げられた等という話をされたが、情報もなく、まだぴんと来なかった。

そして、一週間ほどは、唖然として動けないようでした。

十日も経つと、家に住める避難者は、毎日避難所から自宅へ行き、瓦礫の撤去、電化製品の廃棄、ヘドロの掻き出しと精を出し、社会福祉協議会の運営するボランティアセンターもボランティアを募り、県内の高校生、大学生の支援を中心に各個人の家の手伝いを始めた。

そして五月の連休明けまで続くことになった。

 支援物資は、東北自動車が開通する四月を迎えると、ガソリン不足も解消し、全国からどんどん送られてきた。しかし、支援物資の仕分け、荷捌きがスムーズにゆかず、避難者に届かない事態にもなった。そこで、インターネット通じて、必要な人に必要な物を届ける試みも行われていた。

 避難所には、全国から医師団や保健師が来られていましたし、理容師さんのヘヤーカットやドライシャンプのボランティア、マッサージ師さん、畑中みゆき地元オリンピック選手、山本リンダさんの「うららうらら」の歌に歓声があがりました。

 私達は友人とともに子供のこころの癒しの為に、「海の神様がいたずらしてみんなの玩具や大事なものを、さらっていったけれど、返してほしい物を紙に書いてね」と呼びかけて、ぬいぐるみ、玩具、漫画本、文房具、手作り江戸からくりまで揃えて、避難者の子供にプレゼントをしました。

自衛隊の活躍も有難かった。人の捜索で大変でしょうが、炊き出し、簡易風呂の設置もしてくれた。私も三週間、風呂に入れなかったので、熱いお湯をたっぷりかぶりました。

 仮設住宅六十戸の入居も四月二十八日から始まり、一人暮らしの男性に「夫婦茶碗」をプレゼントして、私の「ほっとカフェ」は、今日で終わりをつげました。

 学さんの富沢中学校での活動を教えて下さい。

学 活動は一週間程でした。避難者が一日目千五百人、二日目千三百人、三日目千百人、四日目百五十人、五日目百二十人 六日目百十人、七日目百人、十五日目には避難所閉鎖。

仙台市では学校管理者の学校長が避難所のリーダーです。

この決まりががうまく機能していた。災害対策本部は市職員が運営し、社会福祉協議会が活動の中心になる組織であったが、町内会と役員がダブっているので、一週間ほどの立ち上げ時は町内会の組織で活動した。しかし、実態は校長の指示の基に、四十人前後の先生が段取りをしていた。後は六つの町内会会員一万二千人を、役員四十人程、平均年齢七十歳以上がお手伝いをする体制でしたね。だから若い先生の寝ないでがんばる姿は感動物でしたね。

 二日目で灯油が残り八0Lしかなくなり、校長と相談し、体育館の八百人に対して、昼は五台のストーブの火を消すようにお願いしましたが、そうだねと皆が了解してくれた時は嬉しかった。切れかけた五日目の夜に灯油の配給がなされた。また、避難所から出来るだけ速く自立することが大切と考え、体育館の脇の壁に、大きな紙を張り、口コミ情報を各自に時間経過のわかるように署名入れで書いてもらった。

安否情報とは別に、お店開店情報、地区毎の通電情報、水道復旧情報、給油所情報、お水使用可能場所情報、携帯電話充電可能場所情報、道路不通情報等、時間経過で書かれているので、復旧過程が一目でわかった。なぜ口コミ情報を提案したかは、若者は携帯等で情報を速く得られるが、高齢者は情報弱者になるので、避難所の若者からボランティアを募り地域生活情報をいち早く書き込んでもらうことにした。

四日目には避難所にいても、自分の家が通電、水道復旧がなされたことをタイムリーに知り、一気に自宅へ帰える事に繋がった。立ち上げ時の私のボランティア活動の役割は終えた。

ライフラインの復旧はどうでした。

紀美子 兵庫県川西市、村山市、長野市等の給水車に長蛇の列が並びました。通電は一週間後、水道復旧は二週間後、都市ガス復旧は四月二十日前後でした。

学 水道復旧は四日目の昼、通電は四日目の夜、都市ガス復旧は名古屋市の東邦ガスで四月十二日でした。ガスが遅れたので、電子レンジ利用での省エネ料理を研究しましたね。

震災後、日常生活に戻ったと感じた日はいつですか

鮪の刺身を食べ、少しワインをいただき、魚は美味しいと思った時かな。塩釜魚市場は幸い津浪の被害が少なく四月十四日に鮪の初水揚げが成され、復興の兆しを示していました。

四月中旬塩釜神社の桜も満開、千賀の浦も青々と煌いていた。

学 四月七日深夜の大きな余震、震度6弱が起きたが、、停電せず、そこでテレビ情報と更なる余震等をインターネットで

配信、ツイッターやブログの書き込みをしながら、取りあえず宮城県沖震源の地震は山は越えたなと思った時かな。

そして八十八年前の東京直下型地震、約三百年周期の東海・東南海・南海三連動型地震へ、震源地は西へ移ったと思った。

家族との安否確認はどうでした。

紀美子 夫は仙台駅を発車したばかりの電車内で被災した。電話連絡がつかなかったが、6時間かけて午後9時頃に雪に濡れて帰ってきて、再会、無事でほっと安心。東京の息子とは、十三日の朝五時に携帯が繋がったが、宮城県内の娘には繋がらず、無事のメールを頼む。石巻市に嫁いだ娘とは三日後に連絡が付き、本人の声を聞くまで心配だった。しかし叔母さんが東松島市の野蒜で行方不明になり、身元不明者として土葬にされていることがわかり、五月三日に自衛隊に掘り起こしてもらい、遠くの栗原市で荼毘に付した。

学 東京の息子は水戸市へ出張中に被災し、そのまま東海原発への風評被害の取材に走ったとの事、四日後に連絡が付く。

嫁いだばかりの娘は名取市の郵便局にいて無事だったが、郵便配達の二人が津浪にさらわれ死亡したとの事で、泣きじゃくっていた。

主宰や俳句仲間とはどうでしたか。

主宰にいち早く電話をしましたら、本に埋もれているが、大丈夫であるとのこと、安心しました。

「浪の会」は菅原祥さんが会員の家を廻って安否を確認してくれて、皆様が無事であることを知った。また、池田智恵子さん宅に横田みち子さんもおり、ミニミニ句会を開催し、落ち着きを取り戻しました。多くの俳句仲間より電話もいただき、励ましの言葉に、優しさに涙がでてたまりませんでした。

また、河北新報に行方不明だった石巻市の渡辺登美子さんの

記事が載っていまして吃驚、六日ぶりに救出されるまで、浸水した自宅の二階に閉じ込められていたそうで、その間、夫が川柳を、妻が俳句を作り批評しあい、運良く冷蔵庫のキャベツを食べて飢えを凌ぎ、励ましあっていたとのことですね。

学 妹の信子さんからも聞き、大変な思いをされたのですね、 兄の白石とは一週間ぶりに連絡が付いた。朝に繋がり、心配していたと怒っていたが、多賀城の歌枕を引用し、沖の石までは津浪が来たが、「白波の末の松山越すかとぞ見る」の通り、末の松山までは津浪は来なかったぞと高笑いをしていた。

滝発行所で翔さん、玲子さん、信子さん、翅子さん、加代さん、啓子さんと俳誌の郵送の手続きをしながら、主宰が印刷所の被災で俳誌は幾分遅れるが、欠番は作らないと決意を新たに示した。さらに三山さんと本に押しつぶされた主宰の部屋の整理をしながら、主宰より宮城県の俳句の歴史、俳人たちの流れやすばらしさを教えていただきました。

震災後、俳句創作に何か変わったことはありますか。

紀美子 奥松島の三島が防波堤となり、松島の国宝「瑞巌寺」は津浪の被害から免れたが、土塀や壁に被害がでたとのこと。

塩釜市の子規、晶子、鉄幹、茂吉、賢治等の海浜公園が去年完成したばかりで、文学散歩道が失われてしまったこと。

滝四月号に「さへづりや千年前の津浪跡 清野やす」の句が載りました。二月の投句分であったので、大震災を予感されていたような気がしましたね。貞観地震から千年、千年に一度の災害に遭遇したのも何かの縁、私たちの俳句も後世に残すのも使命かと思われますがいかがでしょうか。 

学 主宰と話したとき、震災俳句しか浮かんでこないなとも。大震災は価値観の転換をもたらす。戦後の清算とともに、新しい生き方が求められる。物質文明から精神文化への台頭が起こるであろう。俳句創作もその線上に生まれる。俳句は日本人の万葉の世から続く自然への憧憬を縦軸に、大震災後の精神文化を横軸に織り成して、更なる深み進化していゆくであろう。

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